秋の里 あきるほど見る 秋もみじ
季重なりだが見事に得意の韻を踏んだ名句だな。
「あきるほど」を平仮名にしたところがまた乙だね。
バカ言ってないで日が落ないうちにさあ走ろう。
ということで季語は秋の里の「秋」(三秋)と「秋もみじ」(晩秋)である。
日課のランニングで走ったところが山あいであるので、住宅地よりも幾分気温が低いことも相まって紅葉が盛りである。
「飽きるほど」と漢字で書くと本当に飽きて見たくもないと取られがちであるので、「あきるほど見ることができて嬉しい」という思いを醸し出すために平仮名にしたわけである。
まあ、いずれにしても文章というものは作者の思いや意図とは別に独り歩きして思わぬ感情を抱かせてしまうので、作ったらあとはお好きに解釈していただいて結構なのは言うまでもないことである。
まあ、樹木の景色は春から夏場までは緑あるいは深緑であるが、そこへ鮮烈な赤と黄色が混じるので実に目に鮮やかな光景となるのである。
その驚きをいかに表現するかということが俳諧の醍醐味であるが、この句の場合は逆手に取って「あきるほど」と否定の一語をいれたわけである。
さらに象形流俳句道の場合は「笑い」を優先させなければならないという勝手に決めたルールがあるので、あえて季重なりもいとわずにいわゆる洒落としての韻を踏んだわけである。
まあ、いわば駄洒落であるが、これは落語のオチでも基本とされる日本古来からの笑いの基本である。
大喜利でもなぞかけでもこの駄洒落が満載となるわけである。
しかし、いつのころからか駄洒落は「おやじギャグ」てなことを言われて嫌がられれることになったのは、笑いをなりわいとするネット芸人のあたしとしては実に嘆かわしく情けない思いである。
韻を踏むという言葉遊びは昨今ではヒップホップ、ラップの基本でもあるので、つまり、憧れのラッパーがやれば憧れのラップであり、おやじがやれば聞きたくもないおやじギャグということになるわけである。
同じ行為も行う人によってその評価が真逆になるということである。
当たり前である。
嫌な奴のやることはすべてが嫌で、好ましい人のやることはすべてが好ましいのは当たり前であるが、あたしが嫌なのか好ましいのかは、もちろんおやじを通り越してじじいであるということでご勘弁願いたい。
・象気功
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