2021年10月28日木曜日

走って通りがかりの蜜柑の木で一句


蜜柑の木 食い意地の手に ブヨの毒


通りがかり蜜柑をひとつ失敬と手を伸ばしたらブヨに刺されて腫れちゃったという天罰の句である。

天罰もなんのそのでさあ今日も走ろう。

蜜柑は冬の季語であるが、青蜜柑だと秋の季語である。

まあ、いよいよ季節は秋が終わって冬になろうという時期である。

ランニングで通りがかりの蜜柑の木に生っている蜜柑も黄色く色づいて青蜜柑とは表現できない時期になったわけである。

秋といえば夏が終わってさわやかな季節ということに加えて食欲の秋など陽気なイメージの反面、秋の終わりの晩秋には物悲しいイメージもないではないのである。

お題が蜜柑の木であるから、まあ、基本的には実りの秋にということで陽気な句ということであるが、ブヨに刺されてイテテテという実体験の笑いも入れてあるのである。

ブヨはハエを1ミリぐらいにした羽虫で刺されると腫れてえらいことになるのである。

また、さらに土をいじくったりするとヌカカの大群に襲われるのである。

ヌカカは羽蟻を1ミリぐらいにした羽虫で、これも刺されるとチクっと痛くて血が出て、そのあとがとんでもなく晴れてえらいことになるのである。

このように畑や山林の多い郊外にお住まいであると生活と危険は隣り合わせであるが、それでも食欲には勝てずあれこれ手を出して刺されてイテテテになるのである。

もちろん同じ町内会で知り合いの農家さんや住民のものであるので、了解済みであることを一応言っておくのである。

ネットはめんどくさいのである。

象気功

2021年10月26日火曜日

送電線の下を走って一句


送電線 秋雲はじいて うふふのふ


何を見ても一応笑っとけという句である。

笑いながらさあ走ろう。

言うまでもないが、この句の季語は秋雲である。

送電線をたとえばギターの弦と見立てて、それに弾かれた雲が空高く舞い上がっているてなことである。

「弾いて」では漢字が連なって硬くなるので「はじいて」としたわけである。

象形流俳句道は笑いを第一義としているのである。

笑いはすべてに優先すると考えるからである。

笑いは怒りの逆方向の感情である。

怒りが優先すれば人の争いとなり、果ては国と国との争いとなり悲惨な末路が待っているわけである。

その逆方向の笑いが優先すれば人は融和し、国どうしも融和し平和な国際環境を醸成するのである。

当たり前のことであるが、これが理解できないから、現在でも地球上のあらゆる場所で争いが起こり、悲惨な状況に見舞われているわけである。

そうならないためには、ひとりひとりが日々笑うことを心がければいいだけである。

簡単なことである。

ところがそうならないように神という名のこの世のプログラマーが面白おかしくあれこれの仕掛けを仕込んでいるわけである。

とにかく人間は怒りやすく争うようにできているのである。

それを少しでも笑いの方向に向けて、日々の争いを少しでも無くすように一石を投じるのが象源流俳句道である。

また、笑いが身体面あるいは健康面でも血流を増やし免疫力向上に寄与するのは世間一般に周知のことである。

逆に怒れば活性酸素が過剰に生産されて、血管を痛め、内臓を痛め、脳細胞を痛め、ろくなことにはならないのである。

象形流俳句道はとにかく何を見ても笑っとけ笑っとけという道訓を心に掲げ、笑いの道に専念する徘徊の道である。

俳諧だろ。

象気功

2021年10月25日月曜日

刈り込まれたもちの木を見ながら走って一句


雨落ちる もちの実落ちる 我走る


ああ、もう冬になるのねと涙を浮かべて走り去るあたしを見事に韻を踏んで表現した句である。

笑いは無くてもさあ走ろう。

この句の場合、もちの実が晩秋の季語である。

象形流俳句道のもっとーとしては笑える俳句ということがあるわけであるが、まあ、なにしろ1分で作る俳句ということであるから、そんなに爆笑とはいかないものもできるのは当然である。

エバることでもないがいちおう言っとくわけである。

もちろん俳句に笑いをもとめてない向きもあるので、これはこれで評価は分かれるわけであるが、1分で作る俳句の良し悪し云々はそれこそ笑止千万であるかもしれないのである。

写真は通りがかりのもちの木のように見えるが、実は我が100万坪の庭園の境目にある木である。

もちろん100万坪の庭園というのは笑わせようというジョークの一つであると言っとかないと、ときどき坪数が増えたり減ったりして驚く読者もいるのでいちおう言っとくのである。

それはともかく我が100万坪の庭園には秋に植木屋さんが来て夏の間に伸びた枝をチョキチョキと刈り込むわけである。

庭手入れや庭木刈るは秋の季語となっているわけであるが、もちの実は晩秋の季語である。

他に松手入れという晩秋の季語もあるが、我が100万坪の庭園には残念ながら写真に収めるような松はないのでもちの木になったわけである。

まあ、昨今はチョキチョキでなくブオーンと電動バリカンで刈り込むわけであるが、以前、植木屋さんが小雨の降る日にこのもちの木の手入れをしていて梯子から落ちて頭を打って救急車で運ばれて、次の年から違う植木屋さんになったのである。

雨の日は梯子に登ってはいけないというのは造園業の鉄則であるらしいが、そのときの植木屋さんは、まあ、長年の慣れということもあってか、守らなかったわけである。

そんな思い出のあるもちの木を横に見てランニングを始めたのであるが、小雨が降ってきてすぐ撤収したのである。

雨の降る日は走ってはいけないというのはランニングマニアの鉄則である。

風邪ひいちゃうからである。

でも、その鉄則を無視しても走らずにいられないマニアが多々おられるのはご存じの通りである。

習慣になるととにかく毎日走らないと居ても立ってもいられなくなるのである。

なんなんでしょうかこれは。

象気功

2021年10月23日土曜日

通りがかりのハロウィンの飾りつけで一句


ハロウィンや なんの祭りか わからない


なんでかぼちゃなのか、なんでお化けなのか、なんで魔法使いなのか、あたしゃさっぱりわからないという句である。

調べろよ。

やなこった。

やでもなんでも暗くなる前にさあ走ろう。

この句の場合、ハロウィンが晩秋の季語である。

ハロウィンに興味のない大方のおっさん達の御意見を代表して申し上げたのであるが、まったく俳句になってないのである。

情景が描けてないからであるが、言わばただの文句あるいは苦情である。

昨今はハロウィンが季語と認められてるらしいが、季語があるだけで俳句であると言い張るのはちと無理があるわけである。

当然、わかってるなら情景を描けよてなご意見があると思うが、1分で1句を作るとこんなのもできてしまうのである。

それではさらに一句。


ハロウィンの カボチャかぶって おやじ狩り


今度はなかなか情景が見事に描けた一句である。

あるいは見方によってはヤバい句であるかもしれないのであるが、象形流俳句道はライブパフォーマンスであるので、できたものは公開するのである

まあ、いかにもありそうな情景を詠んだ句であるが、日本ではそんなことはないのである。

英語圏においてハロウィンは子供が悪霊や魔法使い扮して「Trick or Treat トリック・オア・トリート(いたずらかごちそうか)」と言いながら家々にお菓子をねだりに行くということらしいが、日本ではそんなこともないのである。

あたしらおっさんには面白くもなんともない催しであるが、コロナ前の近所の駅前商店街には飾りつけの他に屋台の出店も出たりして、仮装してる子供や母親もいて、それなりにファンはいるわけである。

象気功

2021年10月21日木曜日

走り出したらにわかに掻き曇った夕空で一句


曇天を 枯野の色に 染めりけり


わかるかな?わっかんねえだろうなあという句である。

わかんなくてもさあ走ろう。

この句の場合、枯野の色が晩秋の季語である。

まあ、この句の場合、先にお題で夕空と言っちゃってるし、写真はあるしで、句の内容がわかるとは思うが、どこにも夕方の雲とは書いてないので、句を見ただけではこれで作者の意図がわかるかどうかは水物である。

象形流俳句道はまず「分かりやすいこと」と「小難しい語彙」を使わないことを基本としているので、「ううむ、いいかんな」というできあがりである。

なにしろ1分で作るという大前提があるので、脳が不調のときはどうしてもいわゆる普通の句になってしまうのである。

実はこの日はわが社所有のアパートの入居関係で4階のエアコンの入れ替えとお掃除と、さらに事務所の2階のエアコンの入れ替えで、案内したり指示したりで階段トレーニング状態で、てんやわんやで一日中大騒ぎであったので、さすがの体力自慢の象師匠もそれなりに脳が不調であったかもしれないのである。

なんてへたくそな文章なんだかと思うが、そこで一句。


4階や 秋の富士山 物干し場


4階のアパートのベランダから見えるものを素直に詠んだ名句である。

1分でてきとーに作っておいて名句もないもんであるが、まあ、4階から見える霊峰富士と隣家の庭の物干し場という生活の場を対比させたわけである。

もちろん隣家の庭先を許可なく写真を撮ったりすれば盗撮になるので、不肖天下の象師匠としてはたとえ撮っても掲載できるわけはないのである。

撮ったのかよ。

撮っておりません。

一応言っとかないと勘違いする人もいるからね。

ネットはめんどくさいのである。

象気功

2021年10月20日水曜日

通りがかりの神社の階段の前で一句


結界を 前に怯んで 草紅葉


日頃の行いを正してどうどうとなむなむできるようにしなさいという句である。

なむなむは神社でなくお寺だぞ。

4時半だ、ひとまず拝んでさあ走ろう。

なむなむ。

1分で作ったわりにはよくできた句である。

脳細胞の活性化が目的であるので、句のできはどーでもいいといえばいいのであるが、いい句ができるとこれで結構うれしいもんである。

もちろんこの句の場合は草紅葉が晩秋の季語である。

神社を取り囲む山々の高みにいち早く紅葉を見せるのが草紅葉(くさもみじ)である。

まあ、人間はどうやってもこうやっても清廉潔白に生きることはできないのである。

自分では悪いこととわかっていても、日々その悪いことを重ねて、神の規範からすればある意味極悪人がうろうろその辺を歩いてるわけである。

その負い目があるから神の前に立つとなんとなく気おくれしてしまうのであるが、その気おくれをなくすためには悪行を相殺する善行を日々行えばいいわけである。

善行とは毎日神仏に祈りを捧げることではなく、神社仏閣あるいは神官僧侶に寄進寄付をしたりすることでもないのである。

善行とは他人のために良いことをするということである。

やなこった。

なんて言ってるとさらに神の前に立つと気おくれして怯むことになるのである。

わかっちゃいるけどやめられないことだらけであるが、やらないよりマシの善行を日々行おうではありませんか。

お前がやれ?

やなこった。

象気功

2021年10月19日火曜日

ランニングロードの坂道で一句


もうだめだ 坂を登れば 富有柿


息が切れてもあきらめずに登れば甘い柿を食えるぞという食い意地で頑張る句である。

雨が止んでるスキにさあ走ろう。

富有柿に限らず柿は秋の季語である。

うちの近所は禅師丸という品種が多いのであるが、この坂の上には富有柿がいくつか生るのである。

太行功(たいしんこう)という名のスロージョギングとはいえ、坂道を登れば息が切れるのである。

さらに、走ると腹が減るわけであるが、坂道を走るとさらに腹がへるのである。

もちろん腹も減るので坂の上の富有柿が食欲をそそるわけである。

今年はどうも柿の生り年ではないらしく実が少ないながらいくつかぶら下がっているのである。

もちろん柿泥棒も厳密には窃盗罪であるが、持ち主は同じ町内会で知り合いであるので大丈夫である。

象形流俳句道が体内の氣の充実さらには氣道の拡充が大目的とはいえ、基本的に趣味の暴飲暴食を相殺するダイエット目的もあるのにカロリーの高い柿を食ってはだめだろうという思惑もないではないが、あたしの場合はこの世に食欲に勝るものは無いのである。

象気功

2021年10月17日日曜日

家庭菜園の白菜で一句


鍋早い 虫が先食う 白菜若菜


五七七のおもいっきりの字余りである。

この句の場合は白菜が冬の季語であるが、若菜を添えて晩秋を表現したわけである。

白菜は白いわけであるが、その若菜は限りなく緑色である。

緑色であるから若菜の時分は白菜ではないわけであるが、白菜である。

どうも葉緑素も含めて栄養的には若菜の方がありそうであるが、お野菜として白菜の若菜を八百屋さんで売ってないので、どーしても若菜を食べたい人は自分で家庭菜園を作って育てるしかないわけである。

もちろん、その手の趣味のない人にはものすごくめんどくさい手順と時間を要するので、「楽あれば苦あり」という人生の命題をじっくりと楽しめるのである。

象気功

2021年10月16日土曜日

雨上がりのテラス席で一句


晩秋の 雨上がりたる 椅子の水


一休みしようと思って椅子に座ったらびしょびしょであらいやんという句である。

おもいっきり「晩秋の」とそのまんま言ってしまってるので、季語が一目瞭然の句である。

最近はズボンと言わずにパンツだのボトムだのというが、あたし的にはパンツは下着だし、ボトムは底だしでやっぱり誰がなんといってもズボンはズボンである。

よくあることであるが、そのずぼんが濡れた椅子に座った時にびしょ濡れになったときの残念感というのか厭世観というのか自暴自棄というのか、そんなに大げさに言わんでもいいが、とにかく失敗した自分が嫌になるてな気分になるのである。

びしょびしょのまま歩き出すとしょんべん漏らしたみたいに見られるんじゃないかということもあるしで、さらに困った感が増して、乾くまで気が気でないという句である。

象気功

2021年10月15日金曜日

いつものランニングロードを昼飯前に走って一句


赤信号 渡れば轢かれる 空高し


信号は守った方が長生きできるというありがたい句である。

信号が青になってからさあ走ろう。

この句の場合、空高しが秋の季語である。

まあ、なんにしても信号無視をすればろくなことにならないのは子供でも知ってることである。

しかし、信号無視をするのは交通法規を遵守しなければならないはずの車を運転中の大人である。

青信号から黄色に変わったら本来は停止の合図であるが、「黄色に変わったらアクセル踏んで急いで通過しろ」ということと思い込んでる運転者のなんと多いことか。

逆に歩行者が信号無視をするのはあまり見かけないのは、車に轢かれてしまうという絶対的な弱者であるからである。

もちろんその場の状況に合わせて水のように形を変えて生きるのが象気功であるから、弱者であれば弱者としての対応をするのが法である。

もちろん車に乗って強者となっても事故を起こせば重大な人生の困難を引き起こすわけであるから、信号を守るのは当たり前である。

当たり前のことを当たり前にするのが象気功である。

象形流俳句道は走ることと俳句をひねることで脳細胞を含めた全身数十兆の細胞を活性化し、さらに氣の充実と氣道の拡充のための法である。

象気功

2021年10月14日木曜日

花売り場を通りがかって一句


花売り場 知らない花も 秋の花


値札のガーデンマムってなんだ?という、華道家としては大変不勉強な句である。

花を愛でたらさあ走ろう。

この句の場合誰が考えても秋の花が季語である。

花売り場には外国産の新しい花も満載であるので、日本の野山を駆け巡って自然の野の花、野草、樹木を採取して生ける象形流華道家のあたしは、けっこう知らない花があるのである。

まあ、象形流華道は、交配を重ねた養殖の花を生けるお花のお稽古とは一線を画しているので、無知も知のうちで、どうということはないのである。

これからもお花屋さんで買った養殖の花を生けるつもりは全くないので、あたしに勝負を挑む方は、野を走り山に登り森林に分け入って採集した自然の草木を生けていただきたい。

なんの勝負だよ。

象気功

2021年10月13日水曜日

雨が小止みになった湖のほとりを走って一句


なんとなく お化けが出そうだ 秋の池


大変失礼な句である。

この句の場合、秋の池が秋の季語である。

当たり前であるが、けっこうそのまんまという季語もけっこうあるわけである。

池や湖を観光資源として努力している関係者の皆様方には先にお詫び申し上げておくのである。

どうも雲が垂れ込めた池や湖の風景というのは怪しい雰囲気満載で、水に何かが沈んでいるとか、水から何かが上がってきそうな想像をしてしまうのである。

べつにホラーマニアではないのであるが、映画の怖い場面で比較的多く扱われているせかもしれないのである。

逆に晴天の日の池や湖は明るく楽しい行楽気分満載であるが、もちろんそれはあたしの勝手な感想であるのは言うまでもないことである。

人間は思い込みで生きてるところがあるので、人によってその場所や状況のイメージが違うのである。

同じ場所や状況でも良し悪しが逆になるわけであるので、「ものごとは考え方次第」というのは実に言いえて妙である。

象気功

2021年10月12日火曜日

雨で走れないのでロボット掃除機で一句


掃除機と しゃべる我や 秋の雨


雨で走れないのでロボット掃除機と会話を楽しむというヤバい句である。

この句の場合言わずもがなで秋の雨が季語である。

うちのロボット掃除機は数年前に買ったので、比較的旧式であるが、それなりにあれこれしゃべるのである。

「自動で掃除します」とか「充電に戻ります」とか「場所を移してください」とかいろいろ言うわけであるが、もちろんこちらの意見を聞くわけではないので、勝手にしゃべってるわけである。

だいぶ前に米国でロボット掃除機をペットにして連れ歩いてるおばあさんがいるというニュースをやってたが、まあ、にんちしょー気味の高齢者にはしゃべる掃除機は犬猫のようにかわいく見えてしまうということである。

あたしはさすがにそこまではいかんが、それなりにかわいいと思えないこともないのである。

ちょっとヤバいわけである。

象気功

2021年10月11日月曜日

ハロウィンのかぼちゃとやかんで一句


ハロウィンの かぼちゃとやかん あらうふん


ン・んの韻を踏んだ見事な一句である。

笑って頂けたら幸いである。

とにもかくにもさあ走ろう。

昨今はハロウィンが定着して俳句界でもハロウィンも秋の季語としている歳時記も多いのである。

改築中の店先にハロウィンのかぼちゃとやかんが置いてあって、その取り合わせの不思議さに思わずうふんと笑ってしまったわけである。

まあ、かぼちゃはともかくやかんは意図して飾ってあったものではないかもしれないが、非常に不条理でおもしろい光景である。

象形流俳句道は脳細胞活性化のためにを右脳も左脳もフル回転させてほぼ1分以内に作るというのが基本であるが、この情景を見たとたんに一句できたので、実に省エネの句である。

脳は使えば使うほどそれなりに「やらないよりはマシ」の範囲内で活性化されるだろうから、使わにゃ損々であるが、何かテーマあるいは動機づけがないと使いようもないわけである。

俳句というは実にこれに適していて、情景を見ることによる右脳刺激と五七五をひねるときの左脳刺激で実に心地よい脳の回転が実感できるのである。

さらに走ることによる足裏の刺激はこれまた脳機能活性化を果たすことは明らかである。

象形流俳句道は脳機能も改善する実に理にかなった氣の実践法ということである。

象気功

2021年10月10日日曜日

秋空で一句


うろこ雲 もしかしたらば いわし雲


あたしらお天気のしろーとにはうろこ雲なのかいわし雲なのかさば雲なのかひつじ雲なのか見分けがつかないという句である。

見分けがつかなくても、さあ走ろう。

この句の場合説明するまでもなく、秋空であるから秋空が秋の季語である。

気象予報士になりたいわけでもないので、雲に関心はほとんどないのであるが、秋空が高くて雲がいろいろな情景を醸し出すのはそれなりに面白いのである。

しかし、そのときの雲の形がなんという名称なのかはさっぱりわからんのである。

こういうときに昨今はスマホのネット検索という実に便利な方法があるわけであるが、それでもどれがどれなのか、はっきりとは区別はできないのである。

だから、「まあ、こんなところだろう」と判断するわけであるが、たとえば「いわし雲」で句にするには今一つ忸怩たるものがあるので、この句ができたわけである。

1分で句を作る裏側には、脳神経細胞シナプスにそれなりに膨大な電気信号が流れるわけである。

象気功

2021年10月9日土曜日

走る道すがらの店で一句


秋深し 店に食い物 腹が鳴る


ランニングは食い物がない場所を選ぼうね、という句である。

腹が鳴ってもさあ走ろう。

この句の場合、秋深しであるから秋深が晩秋の季語である。

なんのためにランニングあるいはジョギングをするのかというと、競技選手でもないあたしらの場合は一般的にダイエットがその目的のひとつである。

もちろんあたしも氣の充実、氣道の拡充、脳細胞の活性化の他に普段の暴飲暴食を相殺するためのカロリー消費ということが大目的である。

ところがランニングの道すがらに食い物を売ってたりすると、当たり前であるが走れば血糖値ダダ下がりで腹が激減りの状態であるから、我慢しろというのはいわば拷問である。

そこでついつい買い食いしてしまうわけであるが、じゃあ、財布を持ってかなければいいじゃないかというご意見もあるが、昨今はスマホでなんでも変えるのである。

コンビニなんかがあった日はもうアウトであるが、どうしてもその方向に足が向いてしまうのは人情である。

意志薄弱とは違う立派な生命維持のための本能である。

人間の意志は脳で考えて決定しているように思うが、小腸が種の保存のためにあれこれ支持を出して、さらには細胞の方向性で勝手に決まっているのである。

細胞が腹が減ったら食いなさいと支持してるわけであるので逆らえるわけがないのである。

じゃあしょうがない。

象気功

そこはかとない夕景色で一句


赤々と 染まる雲見て 秋刀魚食う


景色がどうだろうがとにもかくにも秋刀魚が美味いという句である。

さあ、今日もひとっ走りだ。

運気は最高、いえい。

この句の場合、秋刀魚が秋の季語である。

秋のサンマは太平洋に広く生息する回遊魚で脂肪分が多く独特の風味があり、日本の秋の味覚の代表のひとつとされ人気の食材である

塩焼きにして柑橘類の搾り汁や醤油などをかけ、大根おろしを添えて食べることが多いのであるが、まあ、サンマといえば大根おろしである。

旬のサンマは脂が乗って、いわゆる脂っこいので消化の助けになるジアスターゼとともにお召し上がりになることを体が求めるんだろうね。

サンマの塩焼きの内臓を好んで食べる人も多いが、サンマは餌を食べてから排出する時間が30分程度と短いため、内臓に独特のえぐみは少なくその人にとっては美味いからである

またイワシ同様に骨が柔らかいので、あたしは頭部を残して丸ごと食ってしまうのである。

サンマには、EPA(エイコサペンタ塩酸)とDHA(ドコサヘキサエン酸)が豊富に含まれており、EPAは血液の流れを良くするといわれ脳梗塞・心筋梗塞などの病気を予防する効果、DHAは体内の悪玉コレステロール(LDL)を減らす作用、脳細胞を活発化させ、頭の回転を良くする効果などがあるのは一般的に周知のことである。

サンマの鮮度は持ち上げた時に胴体が曲がらないものとか、口が黄色いものとか、目が濁っていないものと言われるが、スーパーでサンマをいじくりまわすわけにもいかんし、どの程度が口が黄色いのか、目がにごっていないのかあたしらしろーとにはわからんので、スーパーで買う場合は日付チェックでよろしいわけである。

サンマの内臓には小さく赤いミミズのような虫がごちゃまんと含まれていることがあるが、これはラジノリンクスという魚類に寄生する寄生虫で、人間には無害であるそうであるので、いっしょに食ってもよし、取り出して食うもよしである。

誰がいっしょに食うか。

また、わたもお食べになる場合はアニサキスが寄生している場合もあり、いずれにしても素人調理では刺身等の生食は控えた方が賢い選択である。

象気功

夕景色の住宅街で一句


我走る 逃げるおば様 秋の暮


夕暮れ時にマスクのおっさんが走って来るとヘンタイさんとまちがえた通りがかりのおば様が逃げ出すという実体験の句である。

それでもめげずにさあ走ろう。

この句の場合、もちろん秋の暮れが秋の季語である。

まあ、あたしは走るときにジョギングウエアとに着替えるわけではなく、普段着のまま走り出すのである。

見方によっては危ないおっさんに見えるのか、以前は深夜に走っていたので通りがかった女性が怯んで逃げようとするのである。

それでこれはいかんと反省して早朝に近所の公園を走るようにしたのであるが、これがもうマナーもへったくれもない犬の飼い主が大挙してお集まりで、リードをつけない犬に吠え付かれたりして、そのたびに険しい顔して「リードをつけて散歩しなさい、あそこの看板にかいてあるでしょ」なんてことで文句を言うのがめんどくさくなって朝のランニングはやめたのである。

それで体脂肪燃焼効果も高く、女性も逃げない夕方に走ってるわけであるが、マスクをしてるせいなのか気のせいかなのか通りがかりのおば様がよけるのである。

まあ、おっさんが家で寝ころがってるような普段着で、夏なんかは、タンクトップといえば聞こえはいいが、ときによってはランニングシャツとステテコとサンダルで血相変えて走ってくるわけであるから、何事かと思うのかもしれんのは当然である。

もちろんステテコは某ゆにくろの柄付きであるから、下着には見えないとはいえ、ジョギングとはほど遠い恰好であるのは否めないのである。

でも着替えて走るのはめんどくせーので、この先冬になると冬の普段着である分厚いフリースのシマシマパジャマで走り出すのは目に見えてるのである。

そうなると、どこかで火事があって逃げ出したおっさんになるのである。

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