2022年5月16日月曜日

牛丼を食って一句

 


夏めくや 牛丼食えば 牛が鳴く


牛丼を食いながら、ああ、夏もそこまで来てるなあ、と感慨にふけりながらも、中には牛丼になってあたしに食われてしまう牛もいるわけであるので、それもこれも含めて牛舎でモ~と鳴いているかもしれないというもの悲しい句である。

でも美味いのである。

ヴィーガンだのベジタリアンだの、動物はだめで植物はいいという理論もおかしなもので、人間は動植物に限らずとにもかくにも他の生命体を無慈悲に食いちらかして生きるわけである。

そのようにこの世ができているのである。

だから食う時はありがたいありがたいと心から念じながら食うのが正しい処し方であるが、そうもいかないのが人情で、腹が減ればありがたいもへったくれもなく、ただひたすらお口にかきこんで、美味い美味いとむしゃむしゃ食ってしまうのである。

ああ、ありがたいありがたい。

一応言っとくのである。

一応かよ。

象気功

2022年1月6日木曜日

我が道場の百万坪の大庭園の雪景色で一句

 


初雪や 我が身のままに 新しき


初雪の白さに自堕落な我が身を深く反省しながらも、何一つ変わることなく新しき年を迎えるという自虐の句である。

季語は初雪である。

初雪は文字通り新年を迎えて初めて降る雪という意味合いである。

まあ、昨日「雪は降る あなたは来ない 雪は降る」という句をネタとしてこのブログにアップしてツイートしたが、いくらなんでもヤバかろうということで、ものの1時間で削除したのである。

まあ。べつにスポンサーがいるわけでもなし、盗用だろうが倒錯だろうがいや盗作だろうがどーでもいいわけであるが、笑わせるためとはいえ、多少でもヤバい可能性のあることはしないというのが、いい大人としての心意気である。

心意気はちがうだろ。

まあ、なんにしてもめでたい。

・象気功

2021年11月25日木曜日

走る前にきのこそばを食って一句


きのこそば 仲間外れか エノキダケ


このきのこそばにはエノキダケが入ってないので、エノキ好きのあたしは残念至極がっかりねというあいかわらずの食い意地を張った句である。

季語は榎茸(エノキダケ)で初冬である。

暖かいそばがうまい季節である。

キノコはキノコ狩りで代表される晩秋の季語であるが、エノキダケは初冬の季語であるところに、意図した季重なりも含めてひと工夫が見られる句である。

自分で自分の句を解説するのもなんであるが、とにもかくにも腹が減ってはなんとやらで、走るにもエネルギーは必要であるので、食えばそれだけ元気に走れるわけである。

しかし、もちろんダイエットということも念頭においての太行功(たいしんこう)という名のスロージョギングであるので、本末転倒でぶち壊しといえばぶち壊しであるが、食いたかったんだからしょーがないじゃん。

このように健康法と食欲とは相反するせめぎ合いを続けるのが人間の業の一つともいえないこともないぐらいの実に矛盾したあれこれである。

これを解決するには、欲に打ち勝つ云々よりも同化してともに歩むということが肝要である。

つまり、食いたいものを食いたいときに食いたいだけ食って、その分を消費するということである。

簡単である。

簡単じゃねーだろ。

象気功

2021年11月23日火曜日

寺の境内で行われた骨董市に行って一句

 

大慌て 境内の市 夕時雨


季語は夕時雨(初冬)である。

テントなしの露店はいきなりの雨で大慌てというわかりやすい句である。

某高幡不動尊で毎月第三日曜日に行われる骨董市であるござれ市に行って一句である。

まあ、とにかく広い境内をぐるぐる歩き回るので、気功のスロージョギングである太行功(たいしんこう)の一環でもあるわけである。

市にはテントを張ってる業者さんもおられるが、地べたにシートを敷いただけでそこに品物を並べてお売りになる業者さんも多々おられるのである。

天気のいい日はお気楽極楽で楽しく商売にお励みになるわけであるが、これが天気はきまぐれであるので、予報通りとはいかず、一転にわかに掻き曇り雨粒が落ちてきたりすると、荷物をしまったり、シートをかけたりで忙しくなるのである。

なかなか語順がいい句である。

自分で言うな。

象気功

2021年11月20日土曜日

裏通りを走って一句


ここどこだ 迷って冬めく 裏通り


たまには違う道を走ろうと裏通りに入ったらどこだかわからなくなって徘徊老人と化したあたしという句である。

季語はもちろん「冬めく(初冬)」である。

日々のランニングで走っていると表通りだけが面白いとは限らず、何があるかわからない裏通りも怪しい雰囲気を醸し出して楽しめるのは人生と同じであるな。

表通りはだいたいどこに通じているかわかるし、いきなり行き止まりなんてことはないが、裏通りは行き止まりに限らずヤバイ雰囲気のところもあって、こんなところに這いこんでどうしましょうとか、どこだかわからなくなって元来た道を引き返すなんてことも多々あるので、実に面白いといえば面白いのである。

裏路地はさらに面白く、時には人の家の庭を通り抜けるなんてこともあって、見方によっては泥棒の下見みたいになってしまうのである。

象気功

2021年11月14日日曜日

走って通りがかりの自転車で一句


 

自転車の かごに柚子入れ 家路はるか


今夜の鍋のゆずポンにする柚子を買って、よだれをためながら自転車でいそいそと帰る家路は遠いという相変わらずの食い意地で生きる字余りの句である。

季語は柚子で晩秋である。

まあ、秋も終わりいよいよ冬に近づくと、そろそろ鍋物の季節である。

鍋物にはなんといってもポン酢であるが、さらに柚子を絞ってゆずポンとするとこれはまたたまらん香りと風味でこたえられない味となるのである。

しかし、柚子を常に常備している家庭なんてものはないので、あたしもご同様の状態ではたと「ああ、柚子がない、柚子がなくて鍋物を食うのはカレーなしてカレーライスを食うようなものだ」とわけのわからない結論に達して焦るわけである。

そこで柚子を買いに自転車で走って行き、かごに入れていそいそと帰るわけであるが、これが早く食いたい一心で家までの距離が遠く感じられるのである。

ランニングの途中の銀行の前に止めてあった自転車でそんなことを思い出して1分で一句をしたためたわけである。

ツイッターへの投稿では「自転車のかごにゆず入れ家路はるか」と柚子がゆずになっているが、「のかごにゆず入れ」では何がなんだかわからんという向きも当然あろうかということでブログ本編では漢字で柚子としたわけである。

晩秋の季語としては他に柿、林檎、栗、無花果、胡桃、酢橘、金柑、柑子、檸檬などがあり、実に俳句を作る上においては題材にことかかないわけであるが、自転車というとこの柚子の買い出しを思い出したところが食い意地大王のゆえんたるところである。

象気功

2021年11月5日金曜日

五平餅を2個食って一句


 
五平餅 うちに帰れば 栗ご飯


ランニングの途中に売ってる五平餅を2個食ってしまって大反省したが、うちに帰ると栗ご飯だということを思い出して嬉しくなる、食い意地だけで生きてるあたしという句である。

季語は「栗ご飯」(晩秋)である。

栗ご飯(くりごはん)とは、栗飯(くりめし)ともいい、白米に栗を入れて炊き込んだ炊き込みご飯のことである。

栗は皮をむいて入れるのである。

もちろん知らない人はおられないとは思うが、栗を皮付きのまま入れて炊きこんで「こんなもん食えるか!」と苦情が来る可能性が100%無いとは言えないので、一応参考のために言っておくのである。

ときどき走るランニングコースに五平餅を売ってる店があって、おばさんがいい声で「五平餅はいかがですか~」と呼び込みをやってるのである。

なにしろランニングの目的が氣の充実と氣道の拡充とはいえ、さらに大目的に日頃の暴食とバランスをとるためのダイエットということがあるわけである。

そのために腹をすかしたまま走るわけであるので、いかに太行功(たいしんこう)という名のスロージョギングとはいえ、走ればさらに腹が減るのは人間のいたしかたない生命維持のためのシステムである。

そうなると人間は細胞段階で「腹が減ったら死ぬぞ食え~~~~~~~っ」と命令支持が出るわけである。

そこにおばさんの蠱惑的魅力的な「五平餅はいかがですか~」の売り声であるから、もうたまりません。

破顔一笑、「五平餅を2個くださあ~~~~い」となるわけである。

ただのバカである。

ランニングの途中でうっかりこの店の五平餅を食ってしまったのは実は今回が初めてではなく、前回はご丁寧にカロリーのキングのコーラも一緒にお召し上がりで、ランニングの目的は雲散霧消とあいなったのである。

今回はさすがに反省してコーラは我慢したのである。

しかし、五平餅を欲望のままに2個食ってしまったので、「ああ、いかん、いったいあたしゃ何をやってるんだ、こんなことでは地上最強の気功王の沽券にも股間にもかかわると大反省したわけである。

そうこしてるうちに、食い終わったらさらに腹が減って「あ、そうだ、今日は栗ご飯だ!」と思い出して、大反省が雲散霧消となったのである。

つまり、最初からランニングロードは五平餅のない道を選べばいいわけであるが、これも細胞段階の指示でいやおうなく勝手に脳が選んでしまうのである。

人間はすべての行動は細胞が勝手決めているのである。

脳細胞も細胞であるので、あたしら本人の意志と思ってることは細胞が勝手に決めていることである。

どなたもご経験があると思うが、どんなに硬く決心をしても一夜明ければなんのこっちゃになるのはそのためである。

だから、自分の意志なんてものはあってないようなものである。

以上の理由で五平餅を2個食ってしまったのはあたしのせいではないのである。

おいおい。

象気功

走って通りがかりの真っ赤に染まった紅葉で一句


秋の里 あきるほど見る 秋もみじ


季重なりだが見事に得意の韻を踏んだ名句だな。

「あきるほど」を平仮名にしたところがまた乙だね。

バカ言ってないで日が落ないうちにさあ走ろう。

ということで季語は秋の里の「秋」(三秋)と「秋もみじ」(晩秋)である。

日課のランニングで走ったところが山あいであるので、住宅地よりも幾分気温が低いことも相まって紅葉が盛りである。

「飽きるほど」と漢字で書くと本当に飽きて見たくもないと取られがちであるので、「あきるほど見ることができて嬉しい」という思いを醸し出すために平仮名にしたわけである。

まあ、いずれにしても文章というものは作者の思いや意図とは別に独り歩きして思わぬ感情を抱かせてしまうので、作ったらあとはお好きに解釈していただいて結構なのは言うまでもないことである。

まあ、樹木の景色は春から夏場までは緑あるいは深緑であるが、そこへ鮮烈な赤と黄色が混じるので実に目に鮮やかな光景となるのである。

その驚きをいかに表現するかということが俳諧の醍醐味であるが、この句の場合は逆手に取って「あきるほど」と否定の一語をいれたわけである。

さらに象形流俳句道の場合は「笑い」を優先させなければならないという勝手に決めたルールがあるので、あえて季重なりもいとわずにいわゆる洒落としての韻を踏んだわけである。

まあ、いわば駄洒落であるが、これは落語のオチでも基本とされる日本古来からの笑いの基本である。

大喜利でもなぞかけでもこの駄洒落が満載となるわけである。

しかし、いつのころからか駄洒落は「おやじギャグ」てなことを言われて嫌がられれることになったのは、笑いをなりわいとするネット芸人のあたしとしては実に嘆かわしく情けない思いである。

韻を踏むという言葉遊びは昨今ではヒップホップ、ラップの基本でもあるので、つまり、憧れのラッパーがやれば憧れのラップであり、おやじがやれば聞きたくもないおやじギャグということになるわけである。

同じ行為も行う人によってその評価が真逆になるということである。

当たり前である。

嫌な奴のやることはすべてが嫌で、好ましい人のやることはすべてが好ましいのは当たり前であるが、あたしが嫌なのか好ましいのかは、もちろんおやじを通り越してじじいであるということでご勘弁願いたい。

象気功

2021年11月1日月曜日

走る途中にある進入禁止の置き看板で一句


えらそうに 進入禁止 秋納め


季語はもちろん秋納めである。

11月は晩秋ということであるので、秋の終わりであるが、あたしの気分としては冬に突入てな感じである。

俳句は季語を中心に展開される言葉遊びであるが、季語てなものは日にちを厳密に規定するものではなく、そのときの状況に合わせて選ぶのは当たり前である。

あたしが表現したいことに最も合う季語を選ぶことが言葉遊びから、第二芸術でもなんでもとにもかくにも芸の術に向かう入り口となるわけである。

その中に少しでも笑いを表現することが象形流俳句道の本懐であるが、笑いを芸術ととるかどうかは読む人の文化度であるので、なんともかんとも致し方ないのである。

「あき‐おさめ〔‐をさめ〕【秋収め】 秋の取り入れ。秋の収穫。また、その終了祝い。秋仕舞い。秋上げ。」(デジタル大辞泉)てなことであるが、あたしゃ別に何かを収穫する予定もないので、「ああ、秋もいよいよ終わりだなあ」てな一抹の寂しさを表現したかったわけである。

日課のランニングの途中でショッピングセンターを通り掛かったら車両・二輪車進入禁止の置き看板があったのであるが、まあ、当たり前の看板ではあるが、「入るな!」と、なんとなく態度がでかくてえばりくさってる感じがして、この句となったわけである。

だからといって置き看板に向かって「お前、態度がでかいぞ」なんて文句を言ってたりすると怪しい人になって通報されないとも限らないので、あたしもいい大人であるのでそんなバカなことはしないのは言うでもないことである。

もちろんあたしは車でもなけりゃ二輪車でもないので、進入禁止と言われる筋合いもないので、でかいつらした置き看板の威嚇にもかかわらずどんどんお通りになったのも言うまでもないことである。

象気功

2021年10月28日木曜日

走って通りがかりの蜜柑の木で一句


蜜柑の木 食い意地の手に ブヨの毒


通りがかり蜜柑をひとつ失敬と手を伸ばしたらブヨに刺されて腫れちゃったという天罰の句である。

天罰もなんのそのでさあ今日も走ろう。

蜜柑は冬の季語であるが、青蜜柑だと秋の季語である。

まあ、いよいよ季節は秋が終わって冬になろうという時期である。

ランニングで通りがかりの蜜柑の木に生っている蜜柑も黄色く色づいて青蜜柑とは表現できない時期になったわけである。

秋といえば夏が終わってさわやかな季節ということに加えて食欲の秋など陽気なイメージの反面、秋の終わりの晩秋には物悲しいイメージもないではないのである。

お題が蜜柑の木であるから、まあ、基本的には実りの秋にということで陽気な句ということであるが、ブヨに刺されてイテテテという実体験の笑いも入れてあるのである。

ブヨはハエを1ミリぐらいにした羽虫で刺されると腫れてえらいことになるのである。

また、さらに土をいじくったりするとヌカカの大群に襲われるのである。

ヌカカは羽蟻を1ミリぐらいにした羽虫で、これも刺されるとチクっと痛くて血が出て、そのあとがとんでもなく晴れてえらいことになるのである。

このように畑や山林の多い郊外にお住まいであると生活と危険は隣り合わせであるが、それでも食欲には勝てずあれこれ手を出して刺されてイテテテになるのである。

もちろん同じ町内会で知り合いの農家さんや住民のものであるので、了解済みであることを一応言っておくのである。

ネットはめんどくさいのである。

象気功

2021年10月26日火曜日

送電線の下を走って一句


送電線 秋雲はじいて うふふのふ


何を見ても一応笑っとけという句である。

笑いながらさあ走ろう。

言うまでもないが、この句の季語は秋雲である。

送電線をたとえばギターの弦と見立てて、それに弾かれた雲が空高く舞い上がっているてなことである。

「弾いて」では漢字が連なって硬くなるので「はじいて」としたわけである。

象形流俳句道は笑いを第一義としているのである。

笑いはすべてに優先すると考えるからである。

笑いは怒りの逆方向の感情である。

怒りが優先すれば人の争いとなり、果ては国と国との争いとなり悲惨な末路が待っているわけである。

その逆方向の笑いが優先すれば人は融和し、国どうしも融和し平和な国際環境を醸成するのである。

当たり前のことであるが、これが理解できないから、現在でも地球上のあらゆる場所で争いが起こり、悲惨な状況に見舞われているわけである。

そうならないためには、ひとりひとりが日々笑うことを心がければいいだけである。

簡単なことである。

ところがそうならないように神という名のこの世のプログラマーが面白おかしくあれこれの仕掛けを仕込んでいるわけである。

とにかく人間は怒りやすく争うようにできているのである。

それを少しでも笑いの方向に向けて、日々の争いを少しでも無くすように一石を投じるのが象源流俳句道である。

また、笑いが身体面あるいは健康面でも血流を増やし免疫力向上に寄与するのは世間一般に周知のことである。

逆に怒れば活性酸素が過剰に生産されて、血管を痛め、内臓を痛め、脳細胞を痛め、ろくなことにはならないのである。

象形流俳句道はとにかく何を見ても笑っとけ笑っとけという道訓を心に掲げ、笑いの道に専念する徘徊の道である。

俳諧だろ。

象気功

2021年10月25日月曜日

刈り込まれたもちの木を見ながら走って一句


雨落ちる もちの実落ちる 我走る


ああ、もう冬になるのねと涙を浮かべて走り去るあたしを見事に韻を踏んで表現した句である。

笑いは無くてもさあ走ろう。

この句の場合、もちの実が晩秋の季語である。

象形流俳句道のもっとーとしては笑える俳句ということがあるわけであるが、まあ、なにしろ1分で作る俳句ということであるから、そんなに爆笑とはいかないものもできるのは当然である。

エバることでもないがいちおう言っとくわけである。

もちろん俳句に笑いをもとめてない向きもあるので、これはこれで評価は分かれるわけであるが、1分で作る俳句の良し悪し云々はそれこそ笑止千万であるかもしれないのである。

写真は通りがかりのもちの木のように見えるが、実は我が100万坪の庭園の境目にある木である。

もちろん100万坪の庭園というのは笑わせようというジョークの一つであると言っとかないと、ときどき坪数が増えたり減ったりして驚く読者もいるのでいちおう言っとくのである。

それはともかく我が100万坪の庭園には秋に植木屋さんが来て夏の間に伸びた枝をチョキチョキと刈り込むわけである。

庭手入れや庭木刈るは秋の季語となっているわけであるが、もちの実は晩秋の季語である。

他に松手入れという晩秋の季語もあるが、我が100万坪の庭園には残念ながら写真に収めるような松はないのでもちの木になったわけである。

まあ、昨今はチョキチョキでなくブオーンと電動バリカンで刈り込むわけであるが、以前、植木屋さんが小雨の降る日にこのもちの木の手入れをしていて梯子から落ちて頭を打って救急車で運ばれて、次の年から違う植木屋さんになったのである。

雨の日は梯子に登ってはいけないというのは造園業の鉄則であるらしいが、そのときの植木屋さんは、まあ、長年の慣れということもあってか、守らなかったわけである。

そんな思い出のあるもちの木を横に見てランニングを始めたのであるが、小雨が降ってきてすぐ撤収したのである。

雨の降る日は走ってはいけないというのはランニングマニアの鉄則である。

風邪ひいちゃうからである。

でも、その鉄則を無視しても走らずにいられないマニアが多々おられるのはご存じの通りである。

習慣になるととにかく毎日走らないと居ても立ってもいられなくなるのである。

なんなんでしょうかこれは。

象気功

2021年10月23日土曜日

通りがかりのハロウィンの飾りつけで一句


ハロウィンや なんの祭りか わからない


なんでかぼちゃなのか、なんでお化けなのか、なんで魔法使いなのか、あたしゃさっぱりわからないという句である。

調べろよ。

やなこった。

やでもなんでも暗くなる前にさあ走ろう。

この句の場合、ハロウィンが晩秋の季語である。

ハロウィンに興味のない大方のおっさん達の御意見を代表して申し上げたのであるが、まったく俳句になってないのである。

情景が描けてないからであるが、言わばただの文句あるいは苦情である。

昨今はハロウィンが季語と認められてるらしいが、季語があるだけで俳句であると言い張るのはちと無理があるわけである。

当然、わかってるなら情景を描けよてなご意見があると思うが、1分で1句を作るとこんなのもできてしまうのである。

それではさらに一句。


ハロウィンの カボチャかぶって おやじ狩り


今度はなかなか情景が見事に描けた一句である。

あるいは見方によってはヤバい句であるかもしれないのであるが、象形流俳句道はライブパフォーマンスであるので、できたものは公開するのである

まあ、いかにもありそうな情景を詠んだ句であるが、日本ではそんなことはないのである。

英語圏においてハロウィンは子供が悪霊や魔法使い扮して「Trick or Treat トリック・オア・トリート(いたずらかごちそうか)」と言いながら家々にお菓子をねだりに行くということらしいが、日本ではそんなこともないのである。

あたしらおっさんには面白くもなんともない催しであるが、コロナ前の近所の駅前商店街には飾りつけの他に屋台の出店も出たりして、仮装してる子供や母親もいて、それなりにファンはいるわけである。

象気功

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